特別の地位を占めてゐた。俳優は河原者として賤者である。目見以上の官医は公にこれをみまふことを得ない。然れども医にして技を售(う)らむことを欲するものは皆俳優の家に趨つた。
榛軒は例として俳優の請には応ぜなかつた。「立派な腕のある医者が幾らもあつて見に往つて遣るのだから、何も己が往くには及ばない」と云つてゐた。只市川団十郎父子の病んだ時だけは此例に依らなかつた。団十郎は即七代目と八代目とである。七代目団十郎は人格も卑しからず、多少文字をも識つてゐて、榛軒は友として遇してゐたので、其継嗣にも親近したのである。
榛軒は市川の家を訪ふに、先づ轎(かご)に乗つて堀田原(ほつたはら)に住んでゐる門人坂上玄丈の家に往き、そこより徒歩して市川の家に至つた。徳(めぐむ)さんの云ふには、前に引いた七代目の書牘(しよどく)に「坂の若先生」と云ふのは、此玄丈の子玄真ではなからうかと云ふことである。市川の家では七代目も八代目も数(しば/\)榛軒の治を受けた。河原崎権之助の女ちかが佝僂病(くるびやう)に罹つた時も、此縁故あるがために榛軒が診療した。権之助は九代目団十郎の養父である。
榛軒の貧人を療した事に就いては種々の話があるが、今一例を挙げる。福山藩士に稲生(いなふ)某と云ふものがあつた。其妻が難産をして榛軒が邀(むか)へられた。榛軒は忽ち遽(あわた)だしく家に還つて、妻志保に「柏(かえ)の著換を皆出せ」と命じ、これを大袱(おほぶろしき)に裹(つゝ)んで随ひ来つた僕にわたした。是は柏が生れて日を経ざる頃の事であつた。稲生氏は小禄ではなかつたが家が貧しかつた。それに三子(ご)が生れたのであつた。曾能子刀自は云ふ。「わたくしは赤子の時に著の身著の儘にせられたのですが、其後もさう云ふ事が度々あつたのでございます。」